「どこに行くの？」 と案内人が訊いた。ワタルはほっとした顔になって答えた。
「幸せのある場所」
　案内人はこれだから困るんだよな、というように首をすくめて、
「今の時間は営業時間外だから、他のところにしてもらえますか」
と言った。
　ワタルはがっかりしてうつむいてからしばらく考えて、
「じゃあ、どこなら大丈夫ですか」
とおそるおそる尋ねてみた。
「そうですねえ、今の時間なら、やすらぎのある場所か、あるいは懐かしの風景、ちょっと変わったところでは、地獄の３丁目っていうのもありますが」
「うーん、地獄はちょっと・・・じゃ、懐かしの風景でお願いできますか」
　案内人は、うん、とうなずいて、大きな声で、
「懐かしの風景、入りまーす」
と叫んだ。
　夜の街の遠くのほうまで、案内人の声が響いて消えた。
　微かに湿った空気が、ワタルの肌を撫でるように通り過ぎていった。
「ご案内しますので忘れないようにしておいてください」
　案内人はそう言うと、道順をしゃべりはじめた。それは、少し入り組んではいたが、ワタルにはとても分かりやすかった。それというのも、そこは、ワタルが幼いころ遊びまわった生家の近辺だったからである。
　案内人は、街外れの公園のベンチに座って空を見上げてください、と最後に言った。
　ワタルは、案内どおりに目的の場所まで歩いていった。
　もう、そこには懐かしい景色がひろがっていた。細い路地、流れる小川、街の明かり。何もかもが幼いころに見た景色だった。夜の静けさや深い闇への恐怖までもが、幼い時の記憶とともによみがえってきた。
　やがて、案内人の言っていた公園にたどりついた。ワタルはベンチに座り、ゆっくりと空を見上げた。
　雲がかかってぼんやりとした月が浮かんでいた。
　その瞬間、ワタルの７歳の時の出来事が鮮やかに呼び起こされた。弟の死であった。

　交通事故で息を引き取ったと聞いたときにはぴんとこなかったワタルが、もうこの先、一生会えないんだと教えられたとき、無性に悲しくなって家を飛び出し、この公園のベンチに座って泣いていた。
　あの夜のベンチはやけに冷たかった。そして見上げると、涙でぼやけたおぼろな月が浮かんでいた。青白い月に、安らかに眠る弟の顔が重なった。
　次の日は雨だった。通夜が行われている最中、春の冷たい雨が降り注いでいた。

「どうでしたか？」
　振り返ると案内人がそっとたたずんでいた。
　ワタルは涙で頬を濡らしながら、満足そうに静かにうなずいた。
　空を見上げると、ぽつり、雨のしずくが額にあたった。
　おぼろ月の涙に思えた。