待ち合わせの時間まで、まだだいぶあったある日のこと、いつもなら近くの喫茶店に入って、読みかけの文庫本でも読んでいるのだが、春の日差しがあまりにおだやかで、もう肌には冷たい風が感じられなくなっていたので、私は、右へ左へ行き交う人の流れが絶えることのない新宿アルタ前の歩道に面した壁にもたれながら、ぼんやりと考え事をしていると、ふと、自分の足元を見て、靴のひもがほどけているのに気づき、しゃがんで結び直しながら、視線を斜め前の地面にずらすと、そこに銀色に光る一枚のコインを見つけた。
──さっきから誰かに見つめられているような気がしていたが、その原因はお前だったのだな──
　私は通行人にふまれないように慎重に腕を伸ばして、そのコインを手元に引き寄せた。見たことのない外国のコインだった。どちらが表かは分からないが、片面にはただ「１０」の数字、もう片方には、三角形が組み合わさった幾何学模様が刻み込まれていた。
──お前はどこから来たんだい？──
　私はそのコインをじっと見つめて、返答を待った。だが、コインは穏やかな陽光をキラリと跳ね返しただけで、指先で冷たく黙っているだけだった。
指先から焦点を遠くに移す。するとそこには、一目100人の見知らぬ人。
──君らはどこに向かうの？──
　今、私と顔を合わせた人の、私についての記憶は数秒後に消えうせるのだろう。明日、別の場所で偶然出会ったとしても、お互い顔を覚えているはずもない。「赤の他人」という大括りの枠の中に、すべてが押し込まれていく。
　コインは手の中で、裏に表にひっくり返されながら、じっとその身をゆだねている。
──寂しいのは君だけじゃないさ──
　運命の波にすべてを任せたコインが、手のひらでそうつぶやいたような気がした。
　待ち人がやってきた。
　私は握っていたコインに一瞥して、街灯の隙間に引っ掛けるように差し込んだ。
　いずれ誰かがそのコインを引き抜いて、どこかに運び去っていくのか、あるいは、雨で落ちて、どこかに流されてしまうのか。そして私は、いつまでこのコインのことを覚えていられるのだろうか・・・