７

「ねえねえ、見てよ」
　隣に座っている姉ちゃんが小声で僕にささやいてきた。うと
うとしていた僕は眠い目をこすりながら、姉ちゃんの話を聞い
てあげることにした。だって、ここで無視をしてしまったら、
あとで何を言われるかわからない。それに、今機嫌を損ねたら
名古屋についたらおごってくれると言っていた味噌煮込みうど
んを食べられなくなるかもしれないんだから。
　だから僕は、そんなことは顔に出さず、むしろ、なんだろう
って興味ある風な顔をして、姉ちゃんに、
「なになになに？」
ってささやき返したんだ。
「ほら、隣にいるオヤジ。さっきまでニコニコしてたのに、今
度は涙ぐんでるよ。なに考えてるんだろう」
　お姉ちゃんは小声でしゃべってるつもりなんだろうけど、こ
れぐらいのトーンでは、絶対となりのおじさんに聞こえてると
思う。僕はひやひやしながら、こっそりとおじさんの顔をうか
がった。
　うん、たしかにお姉ちゃんの言うとおり、なんだか泣いてい
るようだ。それにしても僕は、姉ちゃんの観察力にいつも驚か
される。さっきから、ずっと見ていたに違いない。でなきゃ、
赤の他人の顔色の変化なんて、そうそう気付くはずもないんだ
から。
「こんな朝からお酒飲んでいて・・きっと病院でも抜け出して
来たところじゃないかしらね」
　聞こえちゃうよーって、僕は頭の中で叫んでいた。なんてこ
とを言い出すんだろうって思って、でも、僕の顔はニヤニヤし
て、うんうん、そうかもね、って言っちゃったりする。ああ、
自己嫌悪。つい姉ちゃんの前では、いい弟を演じちゃうんだ。
で、僕が演じてるというのを、姉ちゃんは気付いていないから、
まったく手におえない。

　姉ちゃんが調子に乗って、じろじろおじさんの方を見ていた
ら、突然、おじさんが赤い顔をして立ち上がった。
　ひ、ひぃー。ごめんなさい。ぼ、僕は悪くありませんから。
すべて、この人が言ったことですから。って僕はそういう目で
姉ちゃんの方をのぞき見たら、そ知らぬ顔して雑誌なんか読ん
でいる。こういうのを肝がすわってるっていうんだろうな。姉
ちゃんの場合、肝がすわってるというより寝転がってるって言
うほうが正しいのかもしれない。
「あ、ちょっと失礼しますよ。どうもどうも」
　怒鳴られるって思ってたのに、おじさんはそう言って僕らの
前をすり抜けていった。
　ほっと胸をなで下ろしていたら、通路を歩いていくおじさん
の背中に向かって、
「あーあ、あんなにフラフラして。酔っ払いはいやだね」
なんて、姉ちゃん、性懲りもなく言ってしまうんだから。おじ
さんが怖い顔して振り向いても知らないからねって、今度は僕
が雑誌をさりげなく読む番。
　あー、もうちょっと優しい姉ちゃんだったら、こんな気苦労
はしないで済むのに。それに、もうすぐ結婚適齢期を過ぎちゃ
うのに、彼氏の一人もいないで、弟と旅行だなんて、情けない
姉をもって悲しいよ。
　でも、こんなこと口が裂けてもいえない。もし、言ったら、
半殺しにされちゃう。あーあ。
「あれ、なに、ため息ついてるの？」
　いつのまにか、姉ちゃんが僕のほうをのぞき込んでいた。
「え、えっと、酔っ払いは、ほんとに嫌だなあと思ってね」
「でしょ。あんなオヤジにはなるなよ」
「う、うん。もちろんだよ」
　もう少し、いい弟を演じていよう。
　少なくとも名古屋で、味噌煮込みうどんを食べるまでは。

（次号につづく？）