８

　突然、車内の明かりが消えたのは、浜名湖を過ぎた辺りだっ
た。
　明かりが消えると同時に、列車もだんだんと速度を落とし、
ついには止まってしまった。車内に一瞬の静寂が訪れたが、何
事が起こったかを把握した乗客から、ざわざわと話し声が聞こ
えはじめた。
　車掌があわただしく通路を駆けてきた。 
「申し訳ございません。ただいま状況を調査中でして、しばら
くお待ちください」
と言って、急ぎ足で通り過ぎていった。
　車内放送もできない状況になっていたのだった。
　不安になった一人の乗客が、
「後ろから来る列車は、ここに止まってるの分かってるのかな。
もし、分かってなければ、追突してしまうぞ」
と言うと、それを聞いた周りの人々全員の表情がこわばった。

　今、もし、３００ｋｍ近い速度でぶつかってきたら、と思う
と仲村メイは、恐ろしくなって震えてきた。
　だから私はこの歳になって、こんな早い列車に乗りたくはな
かったのよ、と今更ながら後悔した。昔のあののんびりした汽
車の旅がどれほど良かったかのを思い出して、遠い郷愁にひた
るのが、今のメイにとっての一番の心やすらぐ方法だった。
　隣の子は大丈夫かしら、と思って見てみると、さっきと変わ
らずにゲームに夢中になっていた。
　この子は強いわ、そう思って少し心がなごんだメイだった。

　景色は流れずに、目の前にずっと止まったままになっていた。
　夫のために尽くそうと思った明美は、列車が止まってから、
再び、幸雄への感情がじわじわと心の底から沸いてきてしまっ
た。
　今なら、まだ幸雄ともやり直せるかも、という思いと、夫に
対する思いが交錯して宙に浮いた感じになってしまった。
　まるで、大阪と東京でせつない思いが綱引きをしていて、ち
ょうど引っ張る力が同じになってしまったようなそんな感じだ
った。
　この先どうなるのかしら。
　動かない列車がこんなにも不安にさせるものということを、
明美は初めて気づいた。
　早く動いてほしい、としきりに明美は思いつづけていた。

　なんだか暑いなあ。冷房止まっちゃったのかな。
　ん、ここどこだ。駅か。しまった、寝過ごしちゃったか。
　うわ、娘の結婚式に遅刻する父親なんて、ごめんよー、千春。
お父さんは、ちょっと飲みすぎてしまったよー。
　って、降りられないぞ。んあ、ここは駅じゃないぞ。どうな
ってるんだ。え、なに、列車が突然止まって・・・うーん、事
故でもあったのかな。
　いや、そうのんびり考えていてもいけないんだよ。娘の結婚
式が12時からあるんだから。
　どのくらい止まってるの。え、もう３０分ぐらい。そんなに。
いやいや、これは困った。
　あ、そうだ。とりあえず電話しておかなければ。たしか、ト
イレの隣にあったはず。よっこいしょっと。
　うわ、あれれ、大変。こんなに行列つくってるよ。電話でき
ないじゃない。これはほんとに困った。
　あ、ちょっと車掌さん。いったいこれはどうなってるの。
　あわわ、これは先ほどはたいへんご迷惑おかけしまして。い
えいえ、従業員用のトイレがあるなんて知りませんでした。い
やー、ほんとに助かりました。ありがとうございます。
　それにしても、どうして止まっちゃったんですか。
　はー、はー。そうですか。連絡もとれないんですか。えー、
えー。お願いします。
　実は今日結婚式でして。えっ、いや、わたしじゃありません
よ。いまさら、この歳で結婚だなんて。そう、わたしじゃなく
て娘なんです。えー、そういうわけでして、遅れるわけにはい
かないんですよ。頼みますよ。はい。では、よろしく。

（まったく、何をぐずぐずしてるんだ）
　新之助は怒りを胸に押さえるのも、もうそろそろ限界に近づ
いてきていた。
　いっこうに動き出そうとしない列車の、冷房の止まった蒸れ
た空気が、新之助をますますいらいらさせるのだった。
　新之助は無駄な時間というものが一番嫌いだった。
　小さい頃から時間さえあれば稽古をしていた新之助にとって
は、なにもできないこの閉じ込められた空間にじっとしている
ことほどつらいことはなかった。
　さっきやってきた車掌に事情を説明するように食いついてみ
たものの、何もわからない、という答えが返ってきて、思わず
怒鳴ってしまったほどである。
（オレがいなけりゃ、たくさんの人に迷惑がかかる）
　いまや歌舞伎界を代表する人物になった新之助は、宿命と同
時にプライドも兼ね備えていた。
　そう考えて、ふと、顔なじみの客のことを思い出した。
　京都の公演があるときは、必ずといっていいほどよく見にき
ている名も知らぬひとりの女性。
　朝早くから入り口で並び、席は、花道と舞台のちょうど角に
あたるところにいつも陣取っていて、自分が出てくると、新之
助さんとよく声を掛けてくれる人。
　休憩時間には自分で作ってきた弁当を広げて食べているのも
見たことがあった。いつも高級そうな和服でいるのも印象的。
（あの人もオレを待っている）
　そう思うと、こんなところでじっとしているのが、たまらな
く嫌になってくるのだった。
（オレの代わりなんていないのだ）
　伝統の重みと同時に、その貴重さも引き継いでいこうとする
新之助であった。

「もう、いつになったら動くんだろう」
　姉ちゃんは、もういい加減疲れてきたような声で、僕に話し
掛けてきた。僕はこうなるのが嫌だったんだ。姉ちゃんが不機
嫌になると大変なんだから。
「うーん、参ったね。でも、もうすぐ動き出すんじゃないかな」
　僕は必死になって、姉ちゃんのご機嫌をとるはめになってい
た。
　でも、姉ちゃんは意外なことを言い出したのだ。
「このまま動かなければいいのに・・・」
　ぼそりとつぶやいた姉ちゃんの声は、僕にとって初めて聞く
弱々しい声だった。いつも僕の前では元気にしている姉ちゃん
が、今日はいったいどうしたんだろう。
「今日はごめんね。旅行に付き合わせちゃって」
　姉ちゃんらしくないやさしい声で言われると、僕はなんだか
耳がくすぐったくなってきた。ふふ、こんな姉ちゃんもなんだ
かいいなあ。
「ねえ、お願い。旅行の間だけ、さびしいお姉ちゃんの恋人に
なっていてくれないかなあ」
　しっとりと僕のハートにまとわりついてくる艶やかな姉ちゃ
んの声に、今日は変な気分になってしまいそうだ。
「姉ちゃん、僕で良かったら・・・」
　うっとりとした目で姉ちゃんの顔を覗き込んだら、
「ばーか。なに本気にしてるの？ うそだよーん。あはは」
と笑われた。
　ちぇっ、やられた。
　僕は結局、姉ちゃんの暇つぶしなんだなあ。
　
（次号最終回ということで）