あいつがやってきたのは、もう５年前ぐらいになるだろうか。
　俺はその頃、借金して運営していたボクシングジムに客が集まらず、さすがにもうこれ以上営業が難しくなってきていて、そろそろ潮時かな、とジムを畳むことを考えていた頃だった。
　俺はジムの奥の事務室で、こまめに付けていた帳簿を眺めながらため息をついていたその時、ガラリと開いた扉の音と共に、
「おっちゃん、いるか」
というボーズの声が聞こえてきた。
　俺が出てみると、ボーズの後ろに２メートルを超えようかという大男が立っていたのだ。
　借金取りだ、と俺が思うのも無理はなかったと思う。そいつは今にも俺を食ってしまいそうな鋭い目つきで睨みながら、周囲を物色していたのだから。
　俺はなるべく刺激してはいけないと思い、やさしい顔つきで対応することに決めた。額から脇の下から背中から、汗がどっと吹き出してきた。
「入会……ですか？」
　あせった俺はとんでもないことを言ってしまった。
　借金取りがジムに入会するとは思えない。しかし、ボクシングをやらせたら面白いだろうな、と体格を見て思ったことは確かだった。
「ちょっと見学を」
　ぼそりと凄みのある声で借金取りがつぶやいた時、俺は背筋が凍る思いだった。
「あ、そうですよね。実はもうジムを畳んじゃおうかと思ってたところで、入会だったらお断りしようかと思ってるんですよ」
と俺はその場を取り繕うかのように、できるだけ明るく早口でそう言った。
　だが、これが相手を逆撫でしてしまったようで、
「なんで」
と獲物を捕らえる寸前の蛇のような絡みつくような質問を返されてしまった。絶体絶命のピンチだった。
　そして、俺はなぜか、現役時代のリング上を思い出していた。
　いくらパンチを出しても倒れてくれない相手がいて、逆に自分には猛烈なパンチが雨あられのように降り注いできて、ふらふらになりながら朦朧とする霞の中にいて、それでもなお腕を振り上げる俺の姿が脳裏に浮かんできた。
　あの試合は負けたんだっけなぁ……
　いつの試合だったか、その勝敗がどうだったか、あるいは、そんな試合があったかどうかさえ判らずに、現実から逃げ出すようにふとそんなことを考えていた。
　それでも、目の前には２メートルを超す借金取りが、俺の首を締め付けるかのようにじっと睨みつけているのだった。
「ご覧のように客が集まらないもので」
　震える声でそう答えるのが精一杯だった。
　いつの間にか、ボーズはリング上から俺と借金取りのやりとりを、興味深そうに眺めていた。
　電車が通るたびに、ジムの窓ガラスがビリビリと音を立てていた。