「仕事やめてきた」
　男は受話器に向かって語りかけている。

「もう、本当にいやになった。こっちは朝から夜遅くまで毎日がんばってるんだぜ。ここ最近は残業ばっかりで、帰るのは終電だよ。疲れて帰ってきても、すぐ明日はまた仕事なんだ。それに、ここ数週間は休日にも会社行ってるんだぜ

「……それをあの連中は判ってないんだ。おれが必死になって仕上げた報告書をチラッと見ただけで、ああこんなんじゃだめだね、なんて言いやがる

「そりゃあ、おれの作ったものはたいしたことないかも知れないよ。たいしたことないかも知れないけど、おれの努力っていうものを評価してもらいたいよ。おれは決して手を抜いてなんかいないんだ。精一杯、いいものを作ろうとがんばってるんだから

「だいたいあいつらは自分ではなにもできないんだ。パソコンの操作もろくにできないやつらが重役のいすにふんぞり返って、ハンコをポンポン押してるだけなんだからさ

「おれが辞表たたきつけてやったら、おろおろしてやんの。突然こんなのもらっても、なんて言って引きとめようとしやがる。おれははっきり言ってやったよ。ここにいても正しい評価はしてもらえないでしょうから、ってね。おれは、すぐに鞄を持って会社を飛び出してきたよ。あいつらのにやけた顔を明日から見ないと思うと、せいせいするぜ

「……でもさ、おれ、この先どうすりゃいいんだろう。おれの向いてる仕事ってなんだろう。この間のところも、そして今度のところも、３ヶ月ももたなかった。おれもう、人付き合いなんていやだよ。働かないでのんびりと芝生の上で君と寝転がっていたいよ。もう、こんな生活いやだよ

「だいたい……お前がわるいんだからな。お前がおれの前から突然いなくなって、おれの生活はもうぼろぼろだよ。……頼むよ、なあ、戻ってきてくれよ。お前のこと忘れられないんだよ。なあ、おれのことなぐさめてくれよ。おれは君がいなくては生きていけないんだよ……」
　男はそう言って、泣き崩れた。

　受話器の向こうからは、感情のない時報を告げる声が聞こえてくるだけだった。
　２年前に死に別れた妻の遺影が、電話台の奥から、泣いている男に微笑みかけていた。